ベンゲル監督の栄光と衰退

cobax

2011年09月22日 00:27

 1988年、モナコの監督だったアーセン・ベンゲルは、カメルーンでプレイする若いリベリア人選手に目をつけていた。その名はジョージ・ウェア。ベンゲルは毎週、彼について大いに気をそそられる報告を受けていた。とうとうベンゲルはスタッフを現地に送り込み、ウェアのプレイを視察させた。「まず悪いニュースですが、ウェアは腕を骨折しました」と、スタッフは電話で言った。「いいほうのニュースは、彼はそれでもプレイしたということです」

 ベンゲルは気に入った。ウェアはさっそくモナコにやって来て契約書にサインしたが、なぜか冴えない表情で座っていた。だってまだ1セントももらっていないんですと、ウェアは言った。ベンゲルは財布か
ら500フラン(当時のレートで約1万円)を取り出し、彼に渡した。

 プライベートでは話し好きなベンゲルは、ウェアの「契約ボーナス」のエピソードをよく冗談交じりに話す。今はリベリアで政治家になっているウェアによれば、このときベンゲルは彼にこう言った。「本気でやれば、きみはヨーロッパのベストプレイヤーになれる」

「どうだか」とウェアは思った。しかしベンゲルは正しかった。1995年、ウェアは世界最優秀選手に選ばれ、そのトロフィーをベンゲルに贈った。

 このエピソードには、ベンゲルが偉大な監督になった理由が詰まっている。グローバルな目配り、選手の潜在力を見極める感覚、いい選手を安く手に入れる技……。しかし、その偉大さはすでに薄れた。ベンゲルの率いるアーセナルは2005年を最後にタイトルをひとつも手にしておらず、この夏には2人のスター選手をもっと裕福なクラブに送り出し、シーズン序盤にはマンチェスター・ユナイテッドに2-8という屈辱的なスコアで敗れた。

 アーセナルファンの多くは、もうベンゲルでなくてもいいと思いはじめているようだ。ベンゲルの凋落はフットボールに限らず、あらゆる分野で開拓者となった人々への警告でもある。

 1996年に日本のJリーグからアーセナルにやって来たとき、ベンゲルは島国イギリスのフットボール界では誰も知らない知識を持ち込んだ。ワールドカップを見に行こうという監督がイギリスにはほとんどいなかった時代に、ベンゲルは世界のいたるところにいる才能に目配りしていた。

 Jリーグの監督をやっていたときでさえ、ベンゲルはミラノまでよく出かけていた。そこでベンゲルは、ACミランの控えだった内気な若手選手と仲よくなった。名前はパトリック・ビエラ。彼は後にアーセナルの偉大なキャプテンとなった。

 そのころベンゲルは、ユベントスの若いウィンガーで、ベンチでくすぶっていたティエリ・アンリに、きみは本当はストライカーだと言った。「いや、僕はゴールを決めるタイプじゃないです」と、アンリは答えた。アーセナルに移籍したアンリは、クラブ歴代最多の通算得点をあげた。

 ニコラ・アネルカやセスク・ファブレガスなど、まだ10代だった無名選手を見つけたのもベンゲルだ。彼はイギリスのクラブに、国境を越えたスカウティングの大切さを教えた。

 ベンゲルは栄養学でも先駆者だった。彼はアーセナルの選手に、魚や野菜を中心とした日本式の食事をとらせた。チームバスの中では選手たちが「マーズバー(チョコレートバー)を食べたい!」と叫んでいたかもしれない。

 経済学の学位を持つベンゲルは、イングランドのフットボールに統計を持ち込んだ。彼はどの選手がボールを何秒持っていたかといった細かい数字を調べた。ジウベルト・シウバが放出されたのは、この時間がわずかに増えたためだ。

 ベンゲルがめざしたのはスピードのあるパスゲームだった。フットボールの究極の姿だ。この理想はベンゲルの率いるアーセナルで何度か実現された。とりわけ、一度も負けずにリーグを制覇して「ザ・インビンシブルズ(敗れざる者たち)」と呼ばれた2003~04年シーズンのチームである。